【解説】酒を商う

原料を複数回に分けて仕込む「段掛け」、低温加熱により腐敗を防ぐ「火入れ」、蒸米と麹米の双方に精白米を使用する「諸白」、気温の低い冬期に酒を造り発酵を調整する「寒造り」―――現代の酒造りで一般的な技術の多くは、室町時代末期、奈良の僧坊での発展を経て、江戸時代初期にはほぼ完成していた。

江戸時代の銘醸地は摂津と和泉(現在の兵庫県東部から大阪府中部)に集中しており、初期には伊丹・池田が、後期には灘が台頭するようになる。これらの地域で醸された酒は、専用の樽廻船で江戸まで輸送された。江戸には、諸藩の武士や奉公人など非常に多くの人々が集まっており、大量の酒が消費された。天保(一八三〇~四四)以前、多い年には四斗樽(四斗=約七十二リットル)で百万樽を超える酒が江戸で消費されたと言われる。

関西や東海地方から運ばれた「下り酒」は、隅田川河口で樽廻船から瀬取り船に積み替えられ、新川(現・東京都中央区新川)の川岸に建つ酒問屋の酒蔵に運び込まれた。そして、仲買人、小売酒屋を経て消費者の手に渡った。こうした小売酒屋の店先で、量り売りしていた酒を立ち飲みで提供することを「居酒」と呼び、「居酒屋」へと展開していく。このほか、江戸に暮らす大勢の生活を支える外食産業の発展に伴い、酒の消費量も増えた。祭りや行事などの特別な場面で用いられるものであった酒が、広く日常へと普及していったのも、この時代である。

当時は、伊丹で生まれた「剣菱」、「男山」、池田の「七つ梅」などがよく知られていた。興味深いのは、江戸の市場で灘酒が優位を占めるようになっていた江戸時代後期においても、これらの酒が文学や絵画の中に描かれ続けたことである。こうした銘柄が、江戸時代を通して酒の代名詞のように扱われていたことは、ここで紹介する浮世絵からもおわかりいただけるだろう。

明治時代に至り、それまで酒造株を持つ者だけが許されていた営業特権が廃止された。免許税を支払い、許可を得た誰もが酒造業に参入できるようになったことで、明治十二年(一八七九)には、酒造場、造石高ともに、全国的にピークを迎える。かねてより銘醸地とされた関西以外の地方でも、灘に劣らぬ酒造りを目指して酒造改良運動が興り、温度計や顕微鏡の使用、火入れ法の改良、サリチル酸の添加など、西欧の近代科学の知識も酒造りを大きく発展させることになる。

ただし、ここに挙げた浮世絵からもわかるように、酒蔵の内部の様子は、明治に至っても江戸時代と大きく変わらず、酒造りは職人たちの手作業で行われた。現在私たちが慣れ親しんでいる日本酒には、近代科学の知に基づく技術と、江戸時代以前から続く伝統的な技術の両方が生かされているのである。

畑 有紀(新潟大学 日本酒学センター 特任助教)

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